先日、ある方から教えて頂き、えらくビックリすることがありました。
100年以上前の大正時代にも同じ箱根板橋に紅茶工場(工房)が存在していたのです。
利休以来の大茶人とも言われ、三井財閥の礎を築いた益田孝(鈍翁)が所有する2万5千坪の敷地『掃雲台』に、9つの茶室で茶会を開く他、農場、牧場、林業の実験場として、
紅茶やチーズ、牛乳、蜆、毛織物工場や缶詰工場など製品にして三井物産に出荷していたそうです。
明治初期から、三井物産(後に三井農林として独立)もインド へ紅茶技術を派遣し、日本での紅茶栽培を営んでいました。そんな要にいたのが別邸 掃雲台の主 益田鈍翁です。
益田孝とインド・ダージリンへ行った多田元吉の関係がよく確認できませんでしたが、きっと十分関係があったことと推測します。
それにしても、箱根板橋で昔、紅茶が作られていたこと。
インドから技術を導入していたこと。
因縁を感じずにはいられませんでした。
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